「すすきの」のバーの異臭騒ぎ 作:高杉伸二郎
大学院を出た高杉が就職したところが、札幌のてん菜(サトウダイコン)研究所であった。サトウダイコンの品種改良や栽培技術に関する研究を行うところだが、未だ研究所が新設されあたばかりなので、試験畑造成は我々が手がけなければならない。
研究所建設は郊外の羊が丘にあり、全面が永年牧草地だった。肥料も施さないで伸びたら刈るということを長年続けてきた牧草地なので、養分が極端に少ない痩せた土地であった。
2年目になり、研究室や実験室、宿舎も完成したが、このような研究にはサトウダイコンを正常に成育させられる肥えた試験畑を作ることが重要である。痩せた土地を心配していたK部長がある日我々に言った。
「とにかく、この土地には堆肥を投入しなければだめだ。少しでも堆肥を入れることに努力しなければいけない。近くにある八紘学園に知人がいるので、堆肥をくれないかと頼んだら、あげると言っていた。これから貰いに行くから準備しろ」
早速、高杉ほか作業服姿の研究員5人ほどがトラックに乗って出かけた。行ってみたらまだ生々しい牛の糞が稲藁と混ぜられてから日が浅く、熟成していない堆肥であった。
「おいおい、まだ堆肥の匂いより牛糞の匂いの方が強いぜ」
「でも折角親切に呉れると言ってくれたんだ。貰っていこう」
「それにしても凄い匂いだ」
などと口々に言いながら、何とかトラック1台分を一杯にして積んで帰った。
広大な畑には微々たるものだが、慣れない仕事は疲れる。
夕方になり、O所長が我々を呼んだ。
「お前達、今日はご苦労さん。疲れたろう、俺はこれから“すすきの”に飲みに行くから、一緒についてこい。お前ら“すすきの”には行くチャンスがあまりあるまい」
「有り難うございます。では作業服を着替えて来ます」
こんな話は二つ返事でOKだ。宿舎は近いので皆作業服で出勤していた。着替えには余り時間はかからないと思った。すると
「何、そもままでいい。構まわん。すぐ行くぞ」
決まったら待ちきれない様子だ。そう言われれば仕方がない。そう目立つほどの汚れもない。
所長は、ゴルフ、酒はお盛んなようだ。行きつけのバーは、“すすきの”の有楽町という名の小路にある『ブーケ』という店だった。我々には結構高級というか値の張りそうなバーだが、今日は所長のおごりだ。
O所長を先頭に皆がどかどかと入っていった。 客はまだほかに誰もいない。
「アーラ、オーさん。いらっしゃい」
と言った後、次に、この店の客としては、似つかない服装の人間が続けて入ってきたのをみて、何事かと一瞬びっくりしている。
「今日は、うちの研究所の若い者を連れてきたから、サービスしろよ」
これを聞いて安心したのか
「まあ、若い美男子が大勢ご一緒で、どうぞ、こちらへ」
いつもの調子に戻ったようだ。所長はいった。
「おい、好きなものをどんどん飲ませていいよ」
一斉に店にいた7、8人の女が我々の左右に座り、
「まずは、おビールをどうぞ」
「お酒は?それともウイスキーになさる?」
次から次の大サービスで、少し飲み過ぎたようだ。しばらくして、
「チョッとねえ、あんたさっきから変な匂いがしない?」
「私も何か臭いと思っていたわ」
皆がガヤガヤと話し始めた。高杉は気がつかなかった。
「あんた、それ何なの?」
一人の女の子がその隣にいたN君の足下をみていった。
高杉もつられてそこへ目をやった。皆が着用していた作業ズボンはダブルである。N君は何の気なしに、酔っていることもあってか、ズボンの裾のダブルの折り返しに挟まれていたものを手でパラパラと払い落としているではないか。
きれいに磨かれたフロアに牛の糞の混じった堆肥が点々と散らばっている。
「ハハハハ、それは牛の糞だよ。今日、生々しい堆肥をトラックに積んだが、その時挟まったお土産だ」
「アラ、いやだ、臭い」
「サービスのお礼だ、あげるよ」
「キャッ。いやらしい。そばに寄らないでよ、もう」
と逃げていった。
ほかの研究員のソバにいた女も急に離れ、落ち着かない様子だ。でも常連の親父よりは若い我々は、まだモテていると思っていたが、牛糞のハンナマ(半生)付きではどうしようもない。さすがに酔いが醒め、楽しみが半減したので、まもなく引き揚げた。
帰った後で、フロア掃除ばかりでなく、強烈な匂いを消すのは大変だったろう。
飲みに行くときはやはり臭い作業服はいけない。以後着替えて行くことにした。
コメント
高杉伸二郎 2010/12/04 11:42
これまで100編ほど書いていましたが、そのうち順次投稿します。もう老人ですので古い想い出ばなしですので、投稿板を汚しますが よろしく。