生きる  作:佑一

何も変哲もない日常を送っていて、死にたくなるときがある。そのときの自分をどう表現すればいいだろうか。無力、空虚、空っぽ、どれが適当だろうか、あるいはどれもだろうか。友人とわいわいやってるときはそれほど感じない。友人たちや自分に関わる人たちの中では、自分は勉強ができる「自分」だったり、彼は足が速い「彼」だったり、あるいは彼女は歌がうまい「彼女」だったりする。でも、少し外を見てみるといくらでも自分より、彼より、彼女より優れている人間はいる。そこで、身につける物だったり、こだわりだったり、考え方だったり、世界観だったり、そんなものに「自分」を求めてみる。でも、そこでもそんなものはほんのささいなもので、世の中、大げさにいえば世界からみればどうでもいい違いなのだと気づく。失望する。ネットやゲーム、マンガやギター、そんなもので気をまぎらわすが、空っぽの自分に気づかされる。死にたくなる。
でも、そこで不治の病や、体が異形になる病の話を耳にして、それを自分のことに置き換えて考えると恐ろしくなる。やはり死は恐い。ネットでは、交通事故や、テロ、戦争、暗殺の映像がいくらでも転がっている。とある交通事故。横断歩道を渡っている人が時速160kmで走っている車に追突される。そして、空中で異様な体勢になりながら2、30m程とばされ、不自然な格好で地面にぐしゃりと落ちてぴくりともしなくなる。パソコンの画面越しで1が0になったのだ。今、自分はその境界を越えていくのをみたのだ。つい先ほどまで彼は携帯をチェックしながら横断歩道を渡っていたというのに、今は異様な形をした物となってしまった。彼はその向こう側に行きつく間に自分が「死ぬ」と予測していただろうか。誰かからのメールに返事を書きながら、明日も今日の朝と同様に目覚めることを当たり前のように考えていたのではないだろうか。信じられない。でも、このような出来事は現に世界中でリアルタイムに起こっているのだ。ただ、隠ぺいされているだけで。自分の家族が死のうと、友人が死のうと、恋人が死のうと、はたまた自分が死のうと、さーっと、世の中は死体といっしょにその事実もきれいに片づけて行ってしまう。どんなに自分が注意していて歩いていても、次の瞬間にこの世の外に弾き飛ばされるかもしれないのだ。どんなにつつましい生活を送っていても不条理が無限遠に連れ去ってしまうかもしれないのだ。さらに、生きるということがいやになる。なぜ、生まれてきてしまったのかと後悔する。
感動的な映画、本をみる。それの影響で他人にやさしくあらなきゃいけないなと思う。でも、そう思ったのもつかの間、利害がからんだとたん以前と変わらぬ利己的な自分がぬるりとでてくる。また失望する。せめて恋人には、と思うが恋愛というものも詰まる所自己愛でしかないことに気づかされる。
また、無垢に生きようとすればするほど、自分に失望させられる。どうやったとしても、無垢には生きられない。にわとりは工場の流れ作業の過程で上からつるされて回転式カッターで合理的に次々に首を切られていく。牛はとさつ場で首を半分だけ切られてのたうちまわったのちに死ぬ。彼らは安楽死などさせられない。それは非合理的だし、肉の質を落とすからだ。生きるためには仕方がない。とも感じるかもしれないが、それには脳裏に焼きついてはなれないものがある。実に宗教くさいが自然と人間は罪深いと思わされる。仮に天国や地獄などというものがあれば、どのように生きようと人間皆地獄行きだろう。
こう見ていくと、どうあがこうと手詰まりで自分が良く生きるにはやはり快楽や享楽にふけって、死ぬまで気を紛らわすし続けるしかないのだろうか、自分をだまし続けるしかないのだろうかと思えてしまう。自分のためだけに生きて、それに伴う孤独をごまかすために快楽をもとめつづける人生。それが一番いい方法なのだろうか。でも、やはりそれにも限界があるだろう。どんなに最高の快楽をえたとしても、それで終わりとはならないし生きている限りは快楽を求めつづけなければならない。そして、そういう人生にとっての死とは快楽追求の終わりを告げるものだから死を克服するものではないだろう。この場合、死の恐怖心を克服するには、最高の快楽を得た瞬間に死ぬよりほかない。「時よとまれ、今この瞬間が最も美しい・・」とでもいうように。でも、そんなことは、普通の人が実現できるはずがない。だから、死は全ての終わりで、不安と恐怖を持って迎えられるしかない。
では、どうすればいいのだろうか。やはり人とは絶望的な存在なのだろうか。「自分にとって真理であるもののために生きて死ぬ」というように、どう生きるべきなどというのはないだろう。しかし、漠然とした方向はあると思う。それは「自分以外のもののために生きる」ことである。一見するとこれは、きれいごとでしかないように見える上に、あまりに宗教くさすぎるようにおもえる。しかし、考えてみると死の恐怖の根源とは、死の交換不能性であり、その永遠の孤独であった。でも、だからといって他人を大切にすることにもつながらないし、くそくらえと思う奴らはごまんといるじゃないかそんな奴らのために生きたくない、と思うかもしれない。確かにそうだろう、でも考えてみてほしい。さまざまな映画や小説、あるいはマンガの中で「世界の終わり」をテーマにした作品が数多くあるが、それらの作品が、作品として成立するのはなぜだろうか。それをみる人が自分のためだけに生き、他人のことなんてどうでもいいと考える人ならそれは、主人公が交通事故で死ぬだけの物語と変わらないはずである。しかし、それは一つのカテゴリーとして根強い人気をほこっている。それは、私たちが、人類共同体としての仲間意識を持っていて他方でそれが個である「私」を意味あるものとして解釈してくれると考えているからではないだろうか。20世紀の知が明らかにしたのは、我々、ヒトは単独では人間になりえないということであった。「われ思う故、われあり」ではなく、「他人あるが故、われあり」である。自分ひとりだけのために生きることは自己完結することであり、その死は全ての終わりである。自分だけでなく他人のために生きれば、自分が死んだとしても自分の名残ともいうべきものが残り、いわば精神として生き続けるのではないだろうか。それは、無名であれ人類の歴史の地層に積もることを意味するだろう。そこで、そこにおける人と人との関係の中で、「自分」という人間の意味が生まれるのではないだろうか。「死は生の対極ではなく生のうちにある」というのはこういうことではないだろうか。


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