月の海と月のかけら 〔1〕  作:堕天使

(プロローグ)

その日は、部屋のソファーの上で目が覚めた。
なんとなく体中が痛い。なによりも体が芯から冷えきっている。
どうやら買ったばかりのファッション誌を読みながらうたた寝をしてしまったらしい。
「はあ……やっちゃった」
近くに置いてあった大きめのニットカーディガンを羽織りながら1人つぶやく。
気づかないうちに疲れがたまっているんだろうか。
新しい住居に新しい職場、そして新しい人間関係。
この1ヶ月の間にわたしを取り巻く環境のすべてが変わった。
昔から両親の仕事の都合で引っ越しが多かったため、
そういうのには慣れていたつもりでいたんだけど、独り暮らしによる環境の変化となると何かが違うらしい。
ソファーに座ってそんなことをボーッと考えていると急に鳥肌がたった。
羽織っているニットカーディガンだけでは寒いということに、今になって気がつく。
幸い目の前に転がっていた暖房のリモコンはちょっと手を伸ばせば取れる場所にあった。
ところが問題は手に取ったそのあと。
まだ寝惚けているのか、寒さで手がかじかんでいるのか、ボタン1つを押すのも一苦労。
わずか数秒のリモコンとの格闘なのに妙に時間が長く感じる。
そもそもいつもはすっかりと忘れているくせに、
今日みたいな日にかぎって暖房のオフタイマーをしっかりとセットなんかして、もう。
褒めてあげるべきなんだろうけど、今はなんだか素直に褒めてあげたくない気分。


どれだけの時間ボーッとしていたのか、ようやく頭がスッキリとしてきた。
ふとベッド脇のキャビネットの上にある電子時計を見ると4時20分。
――2度寝する気にもならないし今日はこのまま、かな。
せっかく連休初日は寝倒そうかと思っていたのに予定が狂ってしまった。
なんて考えながらおもむろに部屋の灯りをつけると、まだ見慣れていない部屋が目の前にひろがる。
引っ越しのお祝いに親が買ってくれた薄茶色の小さな冷蔵庫。
その横にはマホガニー素材の食器棚。その中で、少ない食器が申し訳なさそうに並んでいる。
実はこの食器棚、偶然立ち寄ったアンティーク店で一目惚れしてつい衝動買いしてしまったもの。
この一角だけを見ると割と洒落た部屋なんだけど……
ちょっと目をそらすといまだに部屋の片隅に積み上げられたダンボール箱の山。うんざりする。
どうも整理整頓が苦手だと片付けるのも遅いらしい。
引っ越してきた初日に必要最低限のものだけ引っ張り出して落ち着いてしまったのがいけなかった。
――あれ?
その山の中の1つのダンボ―ル箱。見覚えがない。
――あんなのあったっけ?
なんとなく不審に思いながらも静かに箱のテープを剥がし、おそるおそる中を覗き込む。
「……」
フリル付きの淡いグレーのワンピースに色褪せたデニムのミニスカート、そしてロングキャミ。
――なんだ、わたしの服じゃん。でもこんな箱に入れたかなぁ?
この物忘れの酷さはどうにかならないものだろうか。
つい1ヶ月くらい前にまとめたばかりのものを忘れるなんて。
そう思いながら箱を閉じて元の場所に戻し、またソファーにゆっくりと座る。
次の瞬間。
「あっ!」
思わず叫んでしまった。
あの服は初めてできた彼と別れた時、そう、3年くらい前に捨てたはず!
実は捨ててなかった……なんてことあるはずがない。
彼と一緒に選んで買った思い出の服だったから、捨てる時は本当に迷った覚えがあるし、
朝、ごみを集める人たちが持っていくのを泣きながら見送った辛い記憶だってある。
それがどうしてここに!?
いくら考えたって結論なんて出ない。捨てたのは事実なんだから。
中身を確認したことを後悔しながらもその箱に視線をうつした時、
ゴトン!
と、背後から押されるような衝撃とともに鈍い音がした。
「なに!?」
突然のことに驚きを隠せない。
振り返りながら叫んだものの、背後はガラス越しにベランダが見えるだけ。
鳥か何かがぶつかったのかと思って下を見てもそんな形跡は一切ない。
さらに言えば、ここは11階。滅多なことでは外から音なんてしない。まして衝撃なんて。
それに気づいた途端、頭の中はパニック状態になる。
手足の感覚も鈍くなり、一気に嫌な汗が吹き出し肌にまとわりつく。
――幽霊!?でも、わたし霊感なんてないし。今までそんな経験だってない。いったいなんだっていうの!?
考えれば考えるほど恐ろしくなり恐怖に支配されていく。
気がつくとわたしは靴を片手に部屋を飛びだしていた。
凄まじい恐怖と焦りで鍵をかけるのも忘れていたけど、頭の中では同じ言葉がリフレインしていた。
――うたた寝なんかしなきゃよかった。




(美穂)

職場で仲良くなった同僚の家のインターホンを鳴らしたのは6時ちょっと前だった。
なかなか返事がこない。やっぱり寝ているんだろうか。起きていても無視する可能性だってある時間帯だし。
こんな朝早くから訪ねてくる人なんてそうそういないから当然かもしれない。
どうしても誰かに話して気を紛らわしたいという一心でここへ向かってきたけど、
やっぱりあまりにも非常識だったかもしれない。
でも、わたしの家で非常識なことが起こっていることもわかってほしい。
怒られてもいいから、少しだけでも話を聞いてほしい。
とにかく今の気持ちのまま家に帰るなんて絶対にできない。
待ちきれなくて最後にもう1度だけ押そうとしたその時、
「――はい」
少し不機嫌そうな感じだけど聞き覚えのある声。
「美穂?えっと、わたしだけど。ごめんね、こんな時間に」
「――恵梨香!?」
「うん」
「ちょっと待っ……あ、キャッ!」
ブツ――
ものすごい中途半端なところでインターホンが途切れた。
「え?どうしたの?」
もう聞こえているはずもないのに聞き返す。ちょっと空しい。
一瞬「まさかわたしの家と同じ現象が!?」とも考えてしまったんだけど、
彼女の場合は「ま、いつものアレだろう」と思い静かに待っていた。

待つこと2分。

やっと、ガチャ、という音がしてドアが開いた。
「ごめんねぇ。またコイツが……」
そう言った彼女の足元を見ると、案の定くっついてきている。
彼女がものすごく可愛がっているダルメシアンのダルダルが。
このダルダルという安易な名前をつけられてしまった犬、
彼女が電話やインターホンで話していると、なぜかジーンズやパジャマの裾に噛りついて離れない。
チワワとかみたいな小型犬ならまだしもアンタはどれだけ図体がでかいと思っているんだ?
ま、その重い体をひきずりながら玄関まで来る彼女も彼女だと思うけど。
「相変わらずだね、ダルダル」
「あはは、この癖はもう直らないよ、たぶん。あ、とにかく入って」
言われるままに部屋に入るわたしを、裾を噛むのをやめたダルダルがジッと見つめる。
まるで「美穂とオレの楽園に入ってくるなよ」とでも言いたそうな目で。
でも、わたしがもこもこした絨毯の上に座ると諦めたように寝始める。その行動が妙に可愛く感じる。
「――にしても、どうしたの?こんな朝早く」
慣れた手つきでコーヒーをつくりながら彼女が聞いてきた。
「あ、うん。何から話したらいいのかわからないんだけど……」
「暇さえあれば寝てる恵梨香がこんな朝早く、まして休みの日にウチに来るなんて尋常じゃないでしょ?」
「え?そんな寝てないでしょ?」
「寝てるって」
そう言ってくすくす笑いながら、わたしの前のガラステーブルの上にコーヒーをそっと置く。
彼女と話していると、まるで何年も前から親友だったかのような安心感を覚える。
趣味や考えかたが似ているというのもあるのかもしれないけど、1番は言葉や態度に嘘がない。
初めて彼女と会う人は「気弱なお嬢様タイプっぽいから、なにかとめんどくさそう」という印象を受けるらしい。
ま、たいていそういう間違った印象をもつのって馬鹿な男が多いんだけど。
同じ女からしてみると1番信頼できる存在。
しっかり者で気が強そうに見られるけど、実は結構ドジで気が弱いわたしと違って、
弱々しくて何もできなさそうに見られるけど、実はしっかり者でものすごくたくましい彼女。
見た目も中身も正反対だからこそ合うのかもしれない、と最近になって思うようになった。
「あのさ……美穂って霊感あるっけ?」
わたしはコーヒーを一口だけ飲んで彼女に尋ねた。
「霊感?ううん、全くないけど。もしかして、あそこの部屋……出たの?」
「実際に姿とか見たわけじゃないけど、なんかおかしいの!あるはずのない物があったり、背中押されたり音がしたり」
「夢を見たとか寝惚けてたとか、そういうことじゃなくて?」
「うん、わたしも最初はそう思ったんだけど……」
「……」
「どうしたらいい?わたし……怖くてあの家……帰れないよ」
話をしている途中からさっきの恐怖が頭の中でフラッシュバックして少し興奮状態に陥っていた。
目の前にいる彼女と視線を合わせることもできずに、ただ下を向く。泣いている子どものように。
「わたし……怖いよ……」
か細くて聞きとれないような言葉を発したあと、わたしはそれ以上なにも言えなくなった。ただただ怖くて。
壁にかけている時計の秒針の音だけがカチッカチッと鳴り響いている。
しばらく経つと少しだけ気持ちが落ち着いてきた。でも、彼女は何も言ってくれない。
「ねぇ、美穂!聞いてる!?」
わたしは、全く返事がないことに不安を覚え、顔を上げて取り乱したように叫ぶ。
――!?
いつの間にか目の前にいたはずの彼女がいない。
「み……美穂?」
目の前が真っ白になりそうだった。うっすらと涙さえ浮かべていたかもしれない。
慌てふためいてコーヒーをこぼしそうになった時、背後で何か動く気配を感じた。
「美穂!?」
とっさに振り返る。
その時のわたしは、まるで長年離れ離れになっていた恋人との再会を果たした時のような笑顔だったかもしれない。
そんなわたしの視界に飛び込んできたもの。
それは、いつの間にか服に着替えていた彼女と、その彼女のジーンズの裾に噛りついているダルダルの姿。
「なにをそんな叫んでるの?」
何事もなかったかのように彼女が聞いてきた。
「だ、だって突然いなくなってたらビックリするでしょ!」
「突然って」
彼女は自分の裾に噛りついているダルダルをなだめながら、くすくす笑っている。
「わたし着替えてくるねって言ったじゃない。でも、恵梨香ったら完全に自分の世界に入っちゃってるんだもん」
「え……だって……」
そう、彼女が返事をしていなかったわけではなくて、
わたしがまた恐怖に支配されて視覚も聴覚も何もかもを閉ざしてしまっていただけ。
「――あ、わたし……」
恥ずかしい気持ちと申し訳ない気持ちで混乱しているわたしに、彼女はこう言ってきた。
「じゃあ行こっか。今、タクシー呼んだから」
「――え?どこに?」
「恵梨香の家。わたしも一緒に行ってあげる。その様子じゃ鍵だってかけてきてないんでしょ?」
「……」
「気のせいかもしれないし。どのみちこのままウチにいたって何も解決しないんだからさ。ね?」
彼女が一緒に来てくれるというだけでとても心強い。気持ちが落ち着く。
彼女のあとをついていくように歩くことで平常心を取り戻すことができたわたしは、
タクシーに乗り込んだあとで「ありがとう」と心から彼女にお礼を言った。
――なのに。
「そんなのいいよ。っていうか、なんか今の恵梨香……拾われてきた猫みたいだよね」
――そんなあっさりと。しかも猫って。
「すっごいオドオドしてるでしょ?」
「それは……って、さっきの話信じてないでしょ!」
「――信じてるってば」
そうつぶやいた彼女の横顔がいつもと違ったように見えたのは、わたしの気のせいだったのだろうか――。


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